
幸子さんは看護師としてフルタイムで働いています。都内で、夫と小学生の娘の三人で生活しています。
父親は76歳。東北地方で一人暮らしをしています。母親は3年前に他界しました。
年齢的には後期高齢者となり、一般的には健康寿命を過ぎたころにあたります。 父は農家でしたが、体力的な衰えもあり、農作業や日常生活の一部を近くに住む親戚が手伝ってくれています。ただ、食事の支度が大変になり、食事量も減ってきているのが気がかりです。
幸子さんは月に一度、東京から東北の実家へ帰省しています。しかし、その移動と気遣いの積み重ねで、次第に自分自身の体力にも限界を感じ始めています。
親戚からは「看護師なのだから、できればあなたが見てあげてほしい」という空気を感じることもあり、そうしたい気持ちと、現実との間で揺れています。
「介護はまだ始まっていないはずなのに、気持ちが重い」
「何かあったら自分がやらなければ、というプレッシャーが消えない」
この段階で多くの人が感じているのは、実は“介護そのもの”よりも、「先が見えない不安」と「責任感の重なり」です。
親は一人暮らしで、後期高齢者に入っている。生活は何とか回っているけれど、食事量が減り、体力も落ちてきている。農作業や家のことを親戚が手伝ってくれているものの、その負担が増えているのもわかる。
一方で自分は、仕事に加えて子育てもある。月に一度の帰省だけでも体力を消耗し、「この生活をいつまで続けられるのだろう」と感じ始めている。
この苦しさは、とても自然な反応です。
「まだ大丈夫」と「もう限界かもしれない」が同時に存在している状態は、人の心を一番疲れさせます。何を決めても後悔しそうで、動くこと自体が怖くなる。だからこそ、苦しさが増していくのです。
「日常生活はできている」「要介護認定も受けていない」。
そうした状況を見ると、「まだ介護ではない」と思いたくなるのは自然なことです。
けれど、健康寿命を過ぎたころからは、「できている」と「無理をして何とか成り立っている」の境目が、とても曖昧になります。
食事の量が減る、疲れやすくなる、生活の段取りに時間がかかる。
こうした変化は、介護が始まる前の“準備期間”のサインでもあります。
今はまだ介護ではない。
でも、「何かが起きたら一気に崩れるかもしれない」という不安を感じるのも、決して考えすぎではありません。
医療や看護の専門職であると、「自分がやらなければ」「他人に任せるのは無責任なのではないか」と感じやすいところがあります。
親戚からも、「看護師なんだから」「あなたが一番わかっているでしょう」といった空気を感じる場面があるかもしれません。
そんなとき、少し立ち止まって考えてみてもよいのではないでしょうか。
仕事として関わっている患者さんのケアは、必ずチームで行われています。一人の看護師が、24時間すべてを背負い続けることはありません。家族の場面でも、同じような考え方があってもよいはずです。
専門職であることと、家族としてすべてを引き受けることは、必ずしも同じではありません。
むしろ専門性があるからこそ、「一人で抱え込むことが負担につながりやすい」ということも、どこかで感じているのではないでしょうか。
家族だからこそ、その線引きが難しくなる。そこに、このジレンマがあります。
「任せる」という選択は、投げ出すことではありません。
これから先も続いていくかもしれない状況を考えたときの、一つの現実的な考え方だと捉えることもできます。
近くに住む親戚が、農作業の手伝いや日常の見守りをしてくれている状況は、とても心強いものです。一方で、その親戚自身が疲れていることに気づいたとき、強い申し訳なさを感じる人も多いでしょう。
ここで大切なのは、「今、誰がどれだけ無理をしているか」を、感情ではなく事実として整理することです。
親戚が善意で頑張ってくれていることと、その状態が長く続くかどうかは別問題です。無理が積み重なると、ある日突然サポートが途切れてしまうこともあります。
誰かが倒れてから体制を考えるのではなく、まだ日常生活が保たれている今の段階で、「家族だけに頼らない前提」を少しずつ作っていく。
その視点が、結果的に親戚を守ることにもつながります。
「準備」と聞くと、何か大きな決断や手続きを想像しがちですが、今必要なのはもっと小さな一歩です。
介護は、「全部やるか、全部放り出すか」の二択ではありません。
今の段階で必要なのは、「抱え込まない練習」を始めることです。
罪悪感を持つ人ほど、親を大切に思っています。でも、無理を続けた先で自分が倒れてしまったら、守りたかったものを守れなくなってしまいます。
親の人生と、自分の人生、そして今育てている子どもの生活。そのすべてが大切です。
まだ父親は日常生活ができている。だからこそ、今は「全部決めなくていい」。
今日できるのは、相談先を知ること、無理を自覚すること、そして「一人でやらなくていい」と自分に許可を出すこと。それだけで十分です。
介護が始まる前のこの時期は、不安が一番大きくなりやすい時期でもあります。
でも同時に、選択肢を広げられる時期でもあります。
あなたが倒れず、親も地域の中で暮らし続けられる。その形は、必ずあります。
焦らなくて大丈夫です。
一歩ずつで、ちゃんと間に合います。
室津 瞳(むろつ・ひとみ)
NPO法人こだまの集い代表理事 / 株式会社チェンジウェーブグループ シニアプロフェッショナル / ダブルケアスペシャリスト / 杏林大学保健学部 老年実習指導教員
介護職・看護師として病院・福祉施設での実務経験を経て、令和元年に「NPO法人こだまの集い」を設立。自身の育児・介護・仕事が重なった約8年間のダブルケア経験をもとに、現場の声を社会に届けながら、働きながらケアと向き合える仕組みづくりを進めている。
【編著書】『育児と介護のダブルケア ― 事例からひもとく連携・支援の実際』(中央法規出版)【監修】『1000人の「そこが知りたい!」を集めました 共倒れしない介護』(オレンジページ)【共著】できるケアマネジャーになるために知っておきたい75のこと(メディカル・ケア・サービス)