ノーマライゼーションは、社会福祉について考えるとき、もっとも重要な概念の一つです。ですが、普通に家族の介護をしていても、あまり耳にすることはない言葉でもあります。
それでもノーマライゼーションは、福祉系の学校ではもちろん、介護系の国家資格の本にも、一番はじめのあたりで紹介されるのが普通です。それだけ本質的で、できるだけ多くの人に理解してもらいたいということなのでしょう。
東北福祉大学のHPより、ノーマライゼーションの定義を、以下に引用してみます。
「ノーマライゼーション(Normalization)」とは,障害者(広くは社会的マイノリティも含む)が一般市民と同様の普通(ノーマル)の生活・権利などが保障されるように環境整備を目指す理念です。こういうとすばらしく聞こえますが,逆にいえば,このような思想が出る背景には,障害者を取り巻く環境は,普通ではなかった(アブノーマル)ということなのです。(以下略)」
https://www.tfu.ac.jp/tushin/with/200803/01/03.html
ノーマライゼーションの背景には、心身になんらかの障害を抱えている人たちの「ただ普通でありたい」という願いがベースにあります。ただ、あまりにも本質的な概念であるがために、時に哲学的でもあり、かえって理解しにくいものになっている感が否めません。
こういうときは「◯◯とは何か?」と問うばかりではなく、「◯◯は何とは違うのか」という否定で考えると、少しだけ話がクリアになります。
ノーマライゼーションは「障害を抱えている人たちの訓練をして、できるだけ普通(ノーマル)の生活ができるようにサポートする」ということ・・・ではありません。こうした自立支援の方向性は、介護において大事な考え方ですが、ノーマライゼーションとは違う概念です。
社会的マイノリティーが、哀れみの対象として社会から下に見られるのではなく、社会側の認知を高め、社会環境のほうを、社会的マイノリティーが普通に暮らせる方向に整備していこうという概念なのです。
たとえば、2015年に発表されたGoogleによる「手の震えを軽減するスプーン(https://japan.googleblog.com/2015/10/blog-post.html)」は、ノーマライゼーションを推し進める商品と言えるでしょう。手の震えを抑えるためのトレーニングではなく、震えがあっても問題ない状態を生み出すものだからです。
ノーマライゼーションの運動を牽引したベンクト・ニィリエ(Bengt Nirje)は、ノーマライゼーションの考え方を、八つの原則として示しています*。高知市の障がい福祉課のHPより、その八つの原則を引用します(一部、句読点など修正しています)。
これを読むと、ノーマライゼーションとは、そもそも基本的人権のことなのだということを思い知らされます。この八つの原則が書かれたのは、今から50年近く前のことなので、性的マイノリティーへの配慮がなかったり、話が知的障害に限定されていたりする部分もありますが、それでもなお、意味のある提言だと思います。
朝ベッドから起きること。たとえ君に重い知的障害があり、身体障害者であっても、洋服を着ること。そして家を出、学校か、勤めに行く。ずっと家にいるだけではない。朝,君はこれからの一日を思い、夕方,君は自分のやり遂げたことをふりかえる。
一日は終わりなく続く単調な24時間ではない。君はあたりまえの時間に食べ、普通の洋服を着る。幼児ではないなら,スプーンだけで食べたりはしない。ベッドではなく、ちゃんとテーブルについて食べる。職員の都合で、まだ日の暮れぬうちに夕食をしたりはしない。
君は自分の住まいから仕事場に行き働く。そして、別の所に遊びに行く。週末には楽しい集いがある。そして月曜日にはまた学校や職場に行く。
決まりきった毎日に変化をつける長い休みもある。季節によってさまざまな食事、仕事、行事、スポーツ、余暇の活動が楽しめる。この季節の変化のなかでわたし達は豊かに育てられる。
子供の頃は夏のキャンプに行く。青年期にはおしゃれや、髪型、音楽、異性の友達に興味を持つ。大人になると、人生は仕事や責任でいっぱい。老年期はなつかしい思い出と、経験から生まれた知恵にあふれる。
大人は、好きなところに住み、自分にあった仕事を自分で決める。家にいてただテレビを見ていないで、友達とボーリングに行く。
子供も大人も、異性との良い関係を育む。十代になると、異性との交際に興味を持つ。そして大人になると、恋に落ち、結婚しようと思う。
誰もが、基本的な公的財政援助を受けられ、そのための責任を果たす。児童手当、老齢年金、最低賃金基準法のような保障を受け、経済的安定をはかる。自分で自由に使えるお金があって、必要なものや好きなものが買える。
知的障害だからといって、20人、50人、100人の他人と大きな施設に住むことはない。それは社会から孤立してしまうことだから。普通の場所で、普通の大きさの家に住めば、地域の人達の中にうまくとけ込める。
介護という文脈でこれを考えると、介護施設という考え方は、ノーマライゼーションに照らせば、決して理想的とは言えないわけです。だからといって、要介護度合の高い人を、ただ家族の犠牲のもとにおくような在宅介護も間違っています。
理想は理想であって、現実的な課題の解決から目をそらすことはできません。とはいえ、理想がない限り、社会レベルでの変革もないでしょう。いつの日か、介護施設という発想自体が「過去の野蛮なもの」として振り返る時が来るのかもしれませんね。
*Bengt Nirje. The Normalization Principle and Its Human Management Implications. Changing patterns in residential services for the mentally retarded, 1969
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木場 猛(こば・たける) 株式会社チェンジウェーブグループ リクシスCCO(チーフケアオフィサー)
介護福祉士 介護支援専門員 東京大学文学部卒業。高齢者支援や介護の現場に携わりながら、 国内ビジネスケアラーデータ取得数最多の仕事と介護の両立支援クラウド「LCAT」ラーニングコンテンツ監修や「仕事と介護の両立個別相談窓口」相談業務を担当。 3年間で400名以上のビジネスケアラーであるご家族の相談を受けた経験あり。セミナー受講者数、延べ約2万人超。
著書:『仕事は辞めない!働く×介護 両立の教科書(日経クロスウーマン)』
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