【とうとう介護が始まった、そんな方へ】「これだけはやっちゃいけない」8年半の介護奮闘生活で気づいた、たったひとつのこと

【とうとう介護が始まった、そんな方へ】「これだけはやっちゃいけない」8年半の介護奮闘生活で気づいた、たったひとつのこと

2022年12月23日、リクシスは、第2回『全国ビジネスケアラー会議』を開催いたしました。本オンラインセミナーは、高齢化の流れが加速する日本社会において、現役世代として働きつつ、同時にご家族の介護にも携わっている「ビジネスケアラー」の方々、そして、その予備軍となる皆様に向けたセミナーです。 イベントの中では、人材育成やマネジメント領域の専門家が語る「ビジネスケアラーが置かれた現実」やベストセラー作家と編集者による「同居介護と遠距離介護の実践例」などの生のお声を多数いただきました。

<当日のプログラムおよび登壇者>
第一部【基調講演】ビジネスケアラー調査で明らかに。仕事と介護の両立リアル
講演者:大嶋寧子氏リクルートワークス研究所 主任研究員
第二部【パネルディスカッション】「ビジネスケアラーの『実践サバイバル術』とは -遠距離介護・同居介護をどう考える?-
登壇者:松浦晋也さん山中浩之さん弊社・木場猛

本記事では、第二部のパネルディスカッションのうち、松浦晋也さんのケースを中心にご紹介します。

ビジネスケアラーの「実践サバイバル術」とは <松浦さんのケース>

パネルディスカッションでは、ビジネスケアラーとして仕事と介護の両立を実現してきたお二方をお招きして、介護の始まりの戸惑いから、さまざまな課題を乗り越えていった経験まで細かく伺いました。

特に、今回登壇いただいたお二人は、どちらも出版できるほどの濃密な介護経験を経ています。時系列順に詳しく伺うことで、介護において初心者が陥りがちな点、よかった点など、現役ケアラーはもちろん、ケアラー予備軍の皆さんにとっても参考になるディスカッションが行われました。

登壇者プロフィール
松浦 晋也(まつうら・しんや)

ノンフィクション作家、ジャーナリスト
ビジネスケアラー歴 約8年半

山中 浩之(やまなか・ひろゆき)
日経ビジネス編集部
ビジネスケアラー歴 約5年

佐々木 裕子(ささき・ひろこ)
株式会社リクシスFounder & CEO
ビジネスケアラー歴 約3年。モデレーターとして参加。

木場 猛(こば・たける)
株式会社リクシスCCO(チーフケアオフィサー)
ヘルパー歴22年以上。介護福祉士・ケアマネージャーとして1000組以上のご家族を担当。

初動の遅れから介護ストレス地獄へ

松浦さんの介護の始まりは2014年の7月。お母様が「預金通帳が見つからない」と言い出したところからでした。しかし、今になって思い返してみると、認知症のサインはもっと以前からあったそうです。

松浦:「認知症じゃないか?」と意識したきっかけは預金通帳事件だったのですが、後から考えてみると前兆があったんですよ。母は以前から太極拳に通ってたんですけど、2年前に突然やめてしまったんです。そのときは気にも止めていませんでしたが、どうやら「太極拳の型だとか、何かが憶えられなくなったことがイヤでやめてしまった」のではないかなと。他にも、まめにメモを取る人だったのに2014年1月からスパッと取らなくなったり、「腰が痛い」というので整体に連れて行ったときの反応が何だかいつもと違ったり。よくよく考えると、前兆らしきものがいくつかありました。

通帳の件があってから2ヶ月、松浦さんはお母様が認知症ではないかと不安に思い、兄弟に相談のメールを送ったり、病院を探すなどの行動を起こしました。

松浦:「もしかして」と思ってから行動するまでタイムラグがあったのは、「自分の母は認知症だ」と認めたくない気持ちがあったからです。私が認めたくないのに加えて、母本人も当然認めようとしない。そんな人間が二人顔合わせたって認めるわけないですよね。

しかし、その間に認知症は進みました。11月には「友だちに会うから」ということでクルマを出しても、肝心の誰とどこで会うのかが一向にわからない、お湯を沸かそうとしてやかんを焦がしてしまうなどのアクシデントがあり、同年12月、松浦さんが事前に説明して出掛けたにもかかわらず、帰宅を促す電話がかかってきたことで、とうとう松浦さんはお母様の変化を受け止めて、専門家に診てもらうことを決意します。

松浦:こんこんと説明した上で出掛けたのに、「あんた今どこにいるの。早く帰ってきて」ですから、これは本当に言ってることが頭に入ってないんだな、と理解しました。それでお医者さんを探したんですが、評判が良いところは予約が取れないんです。それでまた、少し時間を使ってしまいました。今から思うと、行ける病院に手早く行くべきでしたね。

診察を受けることができたのは、2015年の2月のことでした。そこで正式にアルツハイマーと診断され、投薬治療が開始されます。

松浦:2015年の時点では、私は「公的介護」というシステムがあることを知らなかったんです。母の変化に振り回されていると、どんどん視野が狭くなっていくのを感じました。とにかく目の前の状況に対応するので精一杯で、きつかったですね。母親が自分が知っていた母親じゃなくなっていくことの辛さと、単純に日夜増えていくトラブルに対応する大変さ。ストレスが積み重なって、妄想が出ちゃうぐらいに追い詰められました。

認知症が進み、どんどん日常生活ができなくなっていくお母様のお世話をしながら、自身の日常もこなしていかねばならない大変さは、筆舌に尽くしがたいものがあったそうです。

松浦:最初は「母のトラブルは同居している自分がカバーすればいい」と思っていましたが、少しずつトラブルの範囲は大きくなっていくので、いわゆる「茹でガエル」状態になってしまうわけです。「いい湯加減だな」と思いながらお湯に浸かってると、知らぬ間にグラグラの熱湯になっているという。

そして5月。お母様が転倒したことをきっかけに、弟様が公的介護を導入してくれて状況が動きます。

極限まで疲弊したことで、施設に預けることを決意

進む認知症によるトラブルの連続で、疲弊しきった松浦さん。そんな中、弟さんが地域包括支援センターに相談に行ったことで、公的介護が導入されることになりました。認知症発覚から約1年、ようやくヘルパーやデイサービスによるサポートが開始されます。

松浦:正式に要介護認定が出たのは数ヶ月後なのですが、支援センターのほうで柔軟な対応をしていただけたので助かりました。「お母様の状態だったら、必ず要介護1か2は出ます。なので、先行してサービスを開始しましょう」と言ってくれたんです。支援センターの計らいによって少しだけ負担は減少したものの、松浦さんの悩みはそう簡単にはなくなりませんでした。認知症が進むにつれて、様々な新しい問題が浮かび上がってくるためです。

松浦:この時期、一番大きかったのは「失禁」ですね。母本人もやはり恥ずかしいので汚したものを隠して、自分で洗おうとするんです。でも、洗濯がうまくできないので、水をあふれさせたりと、洗濯機の周りで被害が拡大してしまう。それを私が片付けていました。これは思い出すのも辛いです(笑)。

日常動作ができなくなっていく自分に対して苛立ち、「できる」と言い張って事態を悪くするお母様と、その後片付けで疲弊する松浦さん。この時期には、言い争いのケンカになることも多々あったといいます。

松浦:本にも書いたのですが、母との軋轢が一番ひどかったときには、手を上げてしまいました。それを契機に、「同居は無理だ」と考えるようになったんです。ここで妹とケアマネさんがうまく介入してくれたので、とても助かりました。

ドイツで生活をしている妹様とは、お母様の認知症が発覚した当初から、スカイプで週一回の顔合わせをしていました。「何が起きても報告できる」下地がすでにあったことが大きかった、と松浦さんはいいます。

松浦:妹に「母を叩いちゃった」と話したら、私を責めるのではなくて、「わかった。ケアマネさんには私から連絡しておくね」と返ってきました。妹には、お母さんが若年性痴呆症になった親友がいて、家庭内介護が大変なことや、時には暴力沙汰になることも知っていたそうです。その知識があったから、冷静に対応できたみたいですね。

イヤがる母を施設に入れた罪悪感

公的介護によるサポートの拡大も追いつかないほどに増加していく日々のトラブル。ストレスと疲労が限界に達したことで、松浦さんはついに「母を施設に預けよう」と決心しました。しかし、そこにはやはり、一抹の罪悪感があったようです。

松浦:最後まで「施設には入りたくない」と言っていた母をグループホームに入れたのが2017年1月です。正直、だますようなかたちで入居してもらったので、どうしても罪悪感が残りました。「どうせ認知症で記憶は残らないんだから、なんとかなるだろう」なんて計算があるんですけど、それでも心は痛みましたね。それで、やましいもんだから、せっせとホームに通うようになりました。足しげく通うとそれだけ顔を突き合わせるわけで、「家に帰せ」だの、「飯がまずいから何とかしろ」だの、「退屈だから本を持ってこい」だの、母から攻撃を受けるわけです(笑)。

むりやりホームに入れた罪悪感があるとはいえ、お世話で疲弊することはなくなり、松浦さんの精神状態は大きく改善しました。しかし、今度は「病気」というかたちで苦難が訪れます。

松浦:まず、この年の6月に母が脳梗塞を発症して入院しました。幸い、症状は軽くて後遺症も残りませんでしたが、グループホームは介護保険、入院は健康保険の管轄なので、入院時の世話は家族に来るわけです。

さらに、認知症の進行によってお母様に妄想が出始めたり、転倒骨折で再度入院を余儀なくされたりと、少しずつ状況は進んでいきました。

寝たきりから「看取りの段階」へ

入退院はありつつも、お母様をグループホームで見てもらうことで、松浦さん自身にかかる負担は大きく軽減されました。しかしあるとき、松浦さん自身もオートバイで交通事故に遭ってしまいます。

松浦:悪いことは重なるというか、転倒骨折で入院している母のもとに自分も松葉杖で通うことになりました。母も大腿骨を折ったことで車椅子生活になったりと、この時期は無茶苦茶な状況だったことを憶えています。

お母様の体調変化による苦難はまだ続きます。入院の半年後、原因不明の体調不良があり、ずるずると状態が悪くなったことでお母様は、ほぼ寝たきりの状態になってしまったそうです。

松浦:謎の体調不良の数ヶ月後に高熱を出して緊急搬送されたのですが、CTを撮ったところ、「大動脈瘤ができている」と言われたんです。普通だったら、大動脈瘤なんて「できた時点で死んでしまうもの」なんですよ。だけど、「できたけど生きている状態」で、なおかつ、「高齢だから取り除く手術も不可能」という。グループホーム長からは「そろそろ看取りの心構えをしてください」と言われたり、この時期は精神的にとても負荷がかかりました。

体調不良を繰り返して、徐々に状態が進んでいく

転倒骨折からの入院、さらには体調不良が重なることでほぼ寝たきりの状態になってしまった、松浦さんのお母様。ついには大動脈瘤が発見されて、介護は看取りを見据える段階へと進みました。

松浦:大動脈瘤なんて、普通だったらできた段階で死んでるような病気なんですよ。でも、高齢なので切除手術もできなくて。「そろそろ看取りの心構えをしてください」とグループホーム長から言われました。

「母はいつ死んでもおかしくない」という辛い精神状態の中、新型コロナウイルスによるパンデミックが発生。松浦さんの介護生活にも変化が訪れます。

松浦:コロナがあったことによって、「会わない言い訳」ができますから、ある意味で楽になったところがあります。ただ、その間にアルツハイマーがさらに進んで、21年5月には僕のことが完全にわからなくなりました。その年の10月には胆嚢炎が発症しまして、これも通常なら「胆のう除去」の手術をするのですが、高齢なのでできませんでした。そのため、応急処置として身体の外からドレンというチューブを差し込んで胆汁を排出するようになったんです。つまり、ここから先は寝たきりプラスお腹にチューブを差した状態、ということですね。ここで正式に「これからは看取りにしましょう」とホームから促されました。

「看取り」になると、大きく変わる点が二つあります。一つはホーム側の対応の違いであり、生命に大きな危険がある状態になっても、積極的な治療よりも苦痛を取り除く方向に力を入れるようになります。もう一つは家族側の面会の自由度上昇であり、通常ならコロナ対応で面会謝絶なところを窓越しに顔を見ることができたりと、少しルールが緩むといいます。

佐々木:この時期、松浦さんのストレスレベルは上がったり下がったりを繰り返しつつも、平均で7~8と高い数値が続いていますね。

松浦:そうですね。特にここ1、2年は「もう死ぬ、もう死ぬ」と言われつつ、引っ張られているという状態でした。「もうやめてくれ」という感じです(笑)。

佐々木:厳しい状況が続きつつも、ジャーナリストとして物を書いたり、取材をしたりはこなされていたわけですよね。

松浦:ちゃんと収入があって税金も払っているから仕事してるはずなんですけど、あまり記憶がないですね。

一人で抱え込んでいては、仕事と介護の両立は不可能

階段を転げ落ちるように悪くなっていくお母様の体調と、コロナ禍による社会変化。様々な要因に翻弄されて高いストレスを感じつつも、お母様の状態が安定したことと「状況への慣れ」によって、少しずつですが、松浦さんの日常は安定を取り戻していきました。

佐々木:山中さんは編集者として松浦さんのことをおそばでごらんになっていたと思いますが、松浦さんについて気がついた点はありましたか?

山中:大変な状況にあったと知ったのは、かなり後のことでした。そもそも、松浦さんは「介護をしている」ということを最初におっしゃってくれなかったんですよ。これまで順調に続けていた航空宇宙関係の連載記事がパタッと止まって「松浦さん、どうしたんだろう」と思いつつ2年くらい経ったら、「ようやく介護が終わったから、これからは原稿が書けるよ」と言われて。「今まで介護やってたんですか!?」とびっくりしました。

佐々木:(笑)。

山中:それで詳しくお話を聞いたら航空宇宙よりも介護の話のほうがおもしろそうだったので、日経ビジネスで連載していただくことになりました。案の定、反響がよかったので本になったという感じです。その後、航空宇宙の話も書いていただくのですが、率直に言って、やはり介護が始まる前のペースとはいかない気がします。

佐々木:松浦さんは、「介護と仕事が両立できてきたな」と感じたのはどの時期からですか?

松浦:両立を実感できたタイミングはないような気がします。僕は何もわかってない状態で介護に突入しちゃったので、良いケースではないですね。むしろ、「これはやっちゃいけない」みたいなことばっかりしてるので、「べからず集」みたいな。

佐々木:どの辺りが一番まずかったと思いますか?

松浦:事前知識なく、一人で全て抱え込んでしまった部分です。けっきょく、人間ひとりのリソースは有限なんですよ。だから、仕事と介護を両立するなんて、基本的には個人ではできないと考えたほうがいいですね。足りないぶんは周りから力を借りてくるしかありません。借りる力の中でも一番ありがたいのは公的介護です。公的介護をうまく使いこなすことが、介護によって自分が潰されないための大きなポイントじゃないかなと思っています。

佐々木:それに加えて、最初に言っていた「認知症だということをいち早く知る」ということも大事ということでしょうか。

松浦:そう思います。ただし、現時点では、早くわかったところで認知症の発症を止められるわけではありません。仕事柄、いくつも論文を調べたんですけども、認知症についてわかっているのは「危険因子がいくつかある」というだけで、発症の防ぎ方はわかってないんです。だから、「誰もが、いつかなる可能性があること」と認識しておいて、認知症になった場合に社会制度をどう使うかの知識を集めておくことがいいと思います。

佐々木:第一部の基調講演でもあったように、「事前知識を得つつ、いざというときは助けてもらえるような関係性を築く」ことが大事ということですね。

 

レポート親の介護で「親孝行」意気込まず、自分でかかえず「介護のプロ」とチームを組む重要性に続きます。

この記事の監修者

サポナビ編集部

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