スポーツという言葉は、本来、日々の生活から離れることを意味するラテン語である「deportare」というものから派生した英語です。このラテン語には「気晴らし」といった意味があります。実際に、なんらかのスポーツをしたり、スポーツを観戦することで癒されている人は多いはずです。
ただし、これを進化心理学の側面から考えると、違った見え方がします。それは、特定のスポーツは、人間に「気晴らし」をもたらすために成立したのではなく、逆に、理由はわからなくても、人間に「気晴らし」を与えられるものだけが、淘汰を勝ち抜いて生き残っているという視点です。
今、人類史による淘汰を乗り越えて残っているスポーツには、それだけの効果があるということです。進化心理学的にも、その真の効果は、私たちが知っている以上に、ずっと大きいと考えるのが自然です。ただ私たちは、それを「気晴らし」としか表現できないというだけの話です。
結局のところ、私たち人間が「生きる意味」というのは、誰かに与えられるものではなく、自分自身で見出すものだということなのでしょう。スポーツというのは、そうした自らの選択によって生み出した意味の最たるものです。
つまりスポーツは「気晴らし」ではなく、むしろ、私たちの多くが共感できる「生きる意味」に直結している可能性があるということです。だからこそ、自分が弱っていて「生きる意味」に思い悩むような時こそ、スポーツに近づくことが重要だと思うのです。
ここで、面白い研究結果を1つご紹介します。たとえ、自分があまり興味のないスポーツであったとしても、生で(リアルで)スポーツ観戦をすると、様々な心理効果が認められるというものです。
西武ライオンズと早稲田大学スポーツ科学学術院が2016年3月から行ってきた共同研究❶では、過去3年間に3回以上の競技会場でのスポーツ観戦経験がない、西武ライオンズファンではない、うつ病や認知症の治療を受けていないなどの条件を満たした高齢者を対象に野球場での観戦機会を設け、感情や幸福の面においてどのように変化するのかを比較しました。
その結果、プロ野球を観戦しなかった人たちと比較して、プロ野球を観戦した人たちは、2か月間のプロ野球観戦後に認知機能や抑うつ症状が改善することが確認されたということです❷。これは、1回だけであっても、観戦直前では、平常時よりも安静状態を示す感情(ゆったりした、平穏なといった感情)が高まり、観戦直後には、主観的幸福感が平常時よりも高まったとしています❸。
先の研究結果は、テレビではなく、生で観戦することの意義を示したものでした。生でなければならない理由があるということです。生の部分を、なんらかのフィルターを通してしまうと、それだけ、スポーツの持っている意味が失われるという証拠でもあります。
それは、別の表現をすれば、スポーツの素晴らしさは、スポーツ以外では表現できないということでしょう。その場にいることから、遠く離れれば離れるほどに効果が失われるのですから、これは、この研究結果が示している重要な側面ということになります。
理屈は抜きにして、生でスポーツ観戦をしてみるのはどうでしょう。その場でしか味わえない、言葉で表現できない高揚感がきっとあるはずです。特に「生きる意味」といった、人間にとって非常に重要な部分が弱っている時にこそ、威力を発揮するかもしれません。
木場 猛(こば・たける) 株式会社チェンジウェーブグループ リクシスCCO(チーフケアオフィサー)
介護福祉士 介護支援専門員 東京大学文学部卒業。高齢者支援や介護の現場に携わりながら、 国内ビジネスケアラーデータ取得数最多の仕事と介護の両立支援クラウド「LCAT」ラーニングコンテンツ監修や「仕事と介護の両立個別相談窓口」相談業務を担当。 3年間で400名以上のビジネスケアラーであるご家族の相談を受けた経験あり。セミナー受講者数、延べ約2万人超。
著書:『仕事は辞めない!働く×介護 両立の教科書(日経クロスウーマン)』
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