ミッシング・ワーカーとは、労働経済学上の概念です。簡単に言えば、失業者にカウントされない、仕事をしていない労働力のことです。失業者にカウントされないため、これは国の失業率では見えてこない問題です。そのため「ミッシング(消えた)」「ワーカー(労働者)」と表現されます。
日本には、このミッシング・ワーカーが103万人もいることが、NHKスペシャルで放送(2018年6月2日)されました。番組では、40〜50代の独身者が、親の介護をきっかけとしてミッシング・ワーカーになってしまう背景が詳細に描かれていました。
番組の中には、ミッシング・ワーカーからの脱出をしようと、介護労働者としての再スタートを切るというケースがありました。しかしこの人は、再スタート直後に体調を崩し、介護労働者としての仕事もやめざるをえませんでした。なんとも、複雑な気分になる内容です。
「親孝行のため」、「ちょうど仕事をやめたいと思っていたから」、「たまたま派遣の仕事が切れたから」・・・そんな理由で介護離職を選択するケースが増えています。しかしそうして労働の現場から一時期でも遠ざかってしまうと、特にその空白期間が長期化してしまうと、再就職して再び労働力になるのは難しいことなのです。
背景については正確にはわからないものの、そうしてミッシング・ワーカーになってしまうのは、40〜50代の独身者であることが多いようです。おそらくは、40〜50代の独身者が親の介護を理由に介護離職すると、孤立しやすいことが原因と考えられます。番組も、そこにフォーカスをあてていました。
仕事をしないで、親の年金などでの生活をはじめると、意外と生活できてしまうことも問題なのかもしれません。もちろん、親が死んで、年金が途絶えたら、あとは生活保護ということになってしまいます。番組の中で、当事者が語っていた「どうしてこんなことになってしまったのか・・・」という嘆きは、心に刺さりました。
親の介護がはじまれば、誰もが、自分の人生設計の何かをあきらめることになります。それをひとくくりにすれば、贅沢ということになるのかもしれません。その中身は出世だったり、外食だったり、余暇のすごしかたといったことです。問題は、そうした贅沢をあきらめても、意外と生きられてしまうことに気づくことでしょう。
仕事は、基本的に、厳しくて苦しいものです。もちろん、楽しい面もありますが、そうした楽しさを実感するのは、やはり、厳しくて苦しいところを抜けた後にあります。それぞれに背景は異なるとはいえ、多くの人は、ささやかな贅沢も喜びにして、仕事の大変さを乗り越えていくものでしょう。
そこで、贅沢をあきらめてしまった場合、厳しくて苦しいことを乗り越える動機のひとつが失われてしまいます。親の年金に頼っても、贅沢さえしなければ、親が生きているうちは、ギリギリではあっても生活できてしまいます。これは、麻薬のように依存性のある日常になりえます。
誰か他人と会うということは、それなりにコストがかかります。飲み会などの費用はもちろんですが、身だしなみの管理にもお金がかかります。つまり、誰か他人に会うということでさえ、贅沢なことなわけです。ミッシング・ワーカーが周囲からも見えなくなってしまう背景には、彼ら/彼女らが贅沢からもっとも遠いところに行ってしまうからです。
そうして他人に会わなくなれば、緊張もしなくなります。そして適度な緊張さえなくなってしまえば、意識レベルも低下してしまうと考えられます。ただ、親孝行のためと思って仕事を離れたところ、気がつけば何年も経過してしまっていたということは、誰にでも起こりうることなのです。
介護離職から、ミッシング・ワーカーになるまでの距離は、想像以上に近いと認識する必要があります。どこかの不運な人の話ではなく、日本で暮らす全ての人が、ほんの1歩でたどり着いてしまうのが、このミッシング・ワーカーという概念なのです。
サポナビ編集部