バルテスによる生涯学習の獲得・喪失モデル(gain/loss model)

バルテスによる生涯学習の獲得・喪失モデル(gain/loss model)

 

この記事を書いた人

株式会社リクシス 酒井穣

株式会社リクシス 創業者・取締役 酒井 穣
慶應義塾大学理工学部卒。Tilburg大学経営学修士号(MBA)首席取得。商社にて新規事業開発に従事後、オランダの精密機器メーカーに光学系エンジニアとして転職し、オランダに約9年在住する。帰国後はフリービット株式会社(東証一部)の取締役(人事・長期戦略担当)を経て、2016年に株式会社リクシスを佐々木と共に創業。自身も30年に渡る介護経験者であり、認定NPO法人カタリバ理事なども兼任する。NHKクローズアップ現代などでも介護関連の有識者として出演。

著書:『ビジネスパーソンが介護離職をしてはいけないこれだけの理由』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2018)、『ビジネスケアラー 働きながら親の介護をする人たち』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2023)

 

心理学者ポール・バルテス(Paul Baltes)

ポール・バルテス(1939〜2006年)は、ドイツ出身の心理学者です。特に、人間が一生を通してどのような発達をしていくのかという「生涯発達心理学(生涯学習の心理学)」を切り開いた学者として有名です。

バルテス以前の発達心理学は、子供時代から青年までの比較的若い時代を主な研究対象としていました。しかしバルテス以降は、これが老年にまで拡張され「生涯(life-span)発達心理学(developmental psychology)」という分野が開拓されたのです。介護に関連する研究の多くも、この学問の影響を強く受けています。

生前のバルテスは、世界でもっとも影響力のある心理学者の1人として知られていました。1967年にドイツの大学(University of Saarbrücken)にて博士号を取得した後、アメリカに渡っています。そして12年間のアメリカ生活に区切りをつけ、1980年にドイツに帰国するまで、アメリカの様々な大学において心理学の教鞭をとっています。

バルテスは、2006年、ベルリンの自宅で、膵臓ガンにより亡くなっています。生涯で、18冊の本の執筆・監修を行いました。また、250本を超える論文やコラムを執筆したとされています。彼の業績に対しては、様々な賞も与えられました。第1級の学者でした。

 

生涯発達心理学(生涯学習の心理学)のストーリー

バルテスによる「生涯発達心理学」は、その名の通り、生涯を通した発達を模索することで、サクセスフル・エイジング(幸福に年齢を重ねていくこと)を目指しています。バルテスは、そのための研究にとって大事なストーリーを示してくれています。

まず、そもそも発達と言っても、その内容には様々なものがあります。そして、加齢によって変化するものと、そうでないものがあります。「生涯発達心理学」は、加齢をテーマとしていますから、このうち、加齢によって変化するものを研究の対象としています。

加齢による変化とは「なんらかの能力の獲得(成長)」と「なんらかの能力の喪失(衰退)」によって表現できるはずです。そして、この獲得と喪失の間にはダイナミックな相互関係も見られるでしょう。

もちろん、個人差もあるはずです。ですから、そうした個人差を生み出す原因を明らかにすることが大事です。なんらかの理由で上手な獲得をしていたり、喪失を食い止めている個人もいます。その原因を明らかにすれば、多くの人の幸福に貢献できるでしょう。

 

生涯発達心理学の獲得・喪失モデル(gain/loss model)

今でこそ私たちは、人間の生涯について、ある程度共通した認識を持っています。しかしそれは、バルテスのような、一生を研究のために費やした人々による成果を基礎にしています。バルテスの名前は知らなくても、彼が広めた概念は、現在は世界中に根付いています。

その代表的なものが、獲得・喪失モデルです(Baltes, 1987)。このモデルは、厳密には、環境への適応能力(adaptive capacity)の獲得と喪失に関する理論です。環境への適応は、加齢による影響を受ける典型的なものです。

生涯学習の獲得・喪失モデル(gain/loss model)

瞬時に意味が理解できる、何気ないモデルに思えるかもしれません。しかし、優れたモデルというのは、それにはじめて出会ったときに「知っていた」と感じるものです。バルテスによるこのモデルも、一度見たら、ずっと忘れずに脳の中にカチッと収まるものでしょう。

 

バルテスの獲得・喪失モデルをどう活用するか

ここまで紹介してきたバルテスの獲得・喪失モデルを(1)介護職の目線(2)要介護者の目線(3)介護をする家族の目線、の3つの視点から考えてみます。なお、これらは、あくまでも理想論です。介護はそれぞれに違いますから、状況によっては、こうした理想論が意味をなさないことがあるのは当然です。

1. 介護職の目線

人間の環境適応能力は、年齢によって異なります。ですから、まず、異なる年齢の人を捕まえて「自分に適応できる環境なのだから、あなたもできる」というのは、間違っています。そこには、個人的な性格に起因することと、年齢に起因することがあるからです。

ですから、要介護者のことを少しでも深く理解しようとする場合、自分とではなくて、要介護者の同年代で、同じような心身の衰退に苦しんでいる人との比較からはじめないとなりません。比較してみることで、その年齢なりの環境への適応能力(一般の人)と比較して、その特定の要介護者の適応能力は高いのか、低いのかがわかるでしょう。

結果として、もし、その要介護者の環境への適応能力が(加齢による影響を超えて)低いのであれば、その要介護者には潜在的に開発できる能力があります。そこが明らかになれば、この潜在的な能力を引き出すための計画を立案し、要介護者とその家族に提案していくというアプローチが取れるでしょう。

2. 要介護者の目線

自分が苦しんでいる背景には、自分ではどうしようもない部分(加齢による影響)と、自分の考え方による部分(個性)があります。これを切り分けるには、介護される生活を上手に乗り切っている人々と、自分自身の比較をする必要があります。

似たような障害を抱えている同年代の人々の中には、とても前向きな人もいます。そうした人には、学べることがあるはずです。あきらめなければならないことも多いはずですが、新たに獲得していける能力も十分に残っているかもしれません。

バルデスの獲得・喪失モデルでも表現されているとおり、新たに獲得できる環境適応の能力は、年齢とともに減りはしても、死ぬまでゼロにはなりません。私たち人間は、他者とのコミュニケーションから学ぶ生き物です。これを放棄してしまうと、ただ喪失するばかりの人生になってしまいます。

3. 介護をする家族の目線

介護がはじまると「どうして、自分にはこんな面倒なことが降ってきたのか・・・」という気持ちになってしまうこともよくあります。実際に、介護の必要ない家族もいます。介護をしていても、ずっと楽な介護で済んでいる家族もいます。

しかし、私たちは、今、目の前にある環境の中で、最善を尽くすという選択肢しか持ち得ません。自分自身も、誰かの介護をするという新しい環境に適応できるかどうかが鍵なのです。

ですから、介護をしていて同じような負荷に苦しんでいる家族に出会い、自分よりも上手に介護をしている人の話を聞くことが大切です。辛すぎるときこそ、ぜひ、家族会に顔を出してみるべきだと思います。

※参考文献
・Baltes, P. B. (1987), “Theoretical Propositions of Life-Span Developmental Psychology: On the Dynamics Between Growth and Decline”, Developmental Psychology, vol.23 no.5, 611-626 (論文;PDF

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